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山行報告


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読み物・エッセー : 沢登り・私の場合
投稿者: admin 投稿日時: 2007-5-25 11:50:00 (1162 ヒット)

〜沢登り・私の場合〜

N島節

1993年の冬、山岳会に入った。それまで丹沢を二回くらい歩いた程度で山なんかやったことがなかったが夏の丹沢があまりにも暑かったので、沢登りって涼しそうでいいなぁというイメージだけで入会した。 
 
初めての山行は広沢寺での岩トレだったのだが、何で沢登りするのに岩トレしなきゃいけないんですか?と間抜けな質問を平然と言えるほどの超おバカな新入会員だった。なにせ沢に滝があるなんて思っていなくて、ただ静かに水が流れているところだと思っていたのだから。この度を越した無知ぶりは思い出すだけでも恥ずかしいのだが無知ゆえの利点もあった。とにかく全てを素直に吸収できたということだ。 
 
こんな私でもまあまあ登れるようになってきた頃、越後の三国川銅倉沢へ誘われた。そこは実に地味な沢で年間入渓者も稀で、残置などほとんどないし高巻きの踏跡等もない。自分たちでルートを切り開く沢の登り方をはじめて知った。それまで上越近辺の有名きれい所の沢にしか行ったことがなかった私には衝撃的だった。 相談しながらひとつひとつを力を合わせて超えていく醍醐味、そのどれもが楽しく、これが沢を登るという本来の姿なのだと気付かされた私は沢の世界にのめり込んで行った。
 
若葉のみずみずしい頃、丹沢の沢に入る。家から近いというのもあるがなんとなく沢のじめは丹沢から登りたい気分になる。そんな時はたいてい勘七ノ沢が沢始めで、できれば単独がいい。これには理由がある。下山の時寄り道をしながら山椒の若芽を摘みたいからなのだ。そして大倉の農家で筍を買う。

さて、帰宅してからが忙しい。山の片付けはお預けにして台所に向わねばならない。筍は手間が掛かるのだ。下処理をしている間、木の芽をすり鉢であたる。そこへ白味噌を砂糖、みりんで練り上げたものと合わせるとやさしい若葉色の木の芽味噌が出来上がり、これを出汁で炊いた筍と和える。この日の食卓には筍ご飯と筍の木の芽和えが並び、気持ちを沢登りへと切換えてくれる春の恵みを口いっぱいに頬張る。すると何だかワクワクしてくるのだ。
 
お盆の長期休暇はどっぷり山に浸かりたい衝動に駆られる。普段の週末では行かれない長い遡行がいい。だから飯豊や朝日の沢に行きたくなる。たいていの遡行は厳しく、山あり谷ありの波乱万丈だったりするのだが無事遡行を終えた時の充実感や開放感は何とも言えない。それにここの山の持ち味が私には居心地が良い。気取りがなく滋味があり、どうも世間の流れに着いて行かれないというか着いて行きたくないような私としては何処となくほっとするのである。 遡行中は冷や汗を掻く場面も度々、難所を前にしてどうやって越えようか悩むことも多いし、おおよそほっとするという感覚とは正反対のことのようだが何故かしらそう思う。 
 
世の中便利なものが増えてゆき、不便だったり手間を掛けるという類はどんどん肩身が狭くなっているようで、そうなるとそれらが愛おしく、不便や手間を楽しみたくなる。私は不器用なひねくれ者かもしれない。
 
もしかしたら沢を登るという行為も私にとってはその延長線上にあるのではないか、最近そんな気がしてきた。流れに逆らい谷底を遡り岩にへばり付き泥壁に爪を立て薮を漕ぐ、この遊びが楽しいと思う。そして真剣に遊んでいる。そこでは山と向かい合うこと以外何も考えてはいない。正直なところ他のことを考えるゆとりがない。その時々のことに必死になっていたりする。無駄な思考が停止するっていうのはいい。どちらかと言えば日頃から何も考えていない部類の私であっても。
 
自然相手だからいつも自分達に好意的に接してくれるとは限らない。時に険しい表情で突っぱね返されることもある。それでも渓の中にいるとき、沢を取り囲む空間感やそこに醸し出される雰囲気がじんわりと身体に染み入るようで、この漠然とした感覚にほのかな幸福感を覚えたりする。それは日常生活で感じるものとは異なり、もっと本能的なものに起因しているようにも思えるのは気のせいだろうか。
 
その一方で山に入る直前の精神状態は登っている時の高揚感とはかけ離れたもので、ルートの難易度に関係なくいつも得体の知れない不安感に襲われる。そんな時私は本当に山が好きなのか、楽しいと思っているのか心底疑問に思う。
休日は酵母から起こしたライ麦パンを焼き、南蛮屋(厚木のおしいし珈琲店)の豆を挽き、ゆっくりと落とした珈琲と共にいただく。そして猫とまどろむ長閑な昼下がり。こっちの方がいいんじゃないか?本気でそう思ったりする。
 
他人に言わせると私は日常をぼーっと過ごしているそうである。本人そのつもりはないのだがのんびりしているらしい。まったり過ごすのが基本形ということなのだろうか。どおりで痩せない訳だと妙に納得してしまったがこんな私がハイキングではなく雪稜や沢登りを欲するのもまた事実なのだから訳が分からない。まったく矛盾していると思うがいくら考えても私の頭では納得できる答えなんて見つからない。
 
山に一歩入ればそこに登る対象があるから得体の知れない不安感はどこかに吹っ飛んで緊張感はあっても山を楽しんでいる自分がそこにいる。山から下りれば今度は何処に行こうか、なんて考えているし、懲りないヤツだと自分でも思ったりするけれど10年以上も続けているのだからやっぱり好きなのだろう。
 
沢の表情は実に豊かだ。変化する水の優しさ激しさや季節と共に移ろう風景、その懐に一歩踏み込む沢登りにはなんとなく山旅の風情が漂っている。心が洗われるような癒しの渓でもたとえ厳しい登攀が目的だったとしてもだ。そこら辺が岩よりも沢に惹かれる理由かもしれない。それに沢登りという泥臭い遊びが私の性に合っているようだ。
自然の営みを肌で感じ、己の存在など吹けば飛ぶようなものだと毎度足を運ぶたびに思い知らされても、悲しいかなすべてを達観できる境地には今もって至らず。ただ自戒を込めて自然に対して謙虚であろうと思うのが精一杯だ。
 
もうすぐ沢の季節がやって来る。いつも思いつくままに行きたいところへ足を向けているので季節の初めは漠然としているのが常だ。さて、今年も筍ご飯から始めるとしようか。

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